これは大きなテーマだね。私が今日これから書くことも私の思考のプロセスの一部であって、結果ではない。結果すらプロセスの一部だから、常に流動的に変わっていくもの。
出てきたテーマは「許し」
なんだ、なんだ?私があんたを許すって、何様やねん?(なぜかここの表現は大阪弁が自然です。注意:大阪のDNAはございません(笑)

許す側と許される側。なんかおかしい。笑えてくる。
許すとは、本来、自然発生的なものだよね。
これは手放すということとイコールだ。手放しについて、まるまる本1冊。これ役に立つ。
私も何度も読んだ。今日も読んだ。

昨日書いたキネシオロジーについてもデービッドホーキンスという人は精通している。お亡くなりなってるけど。
許すって、やっぱり手放しなんだよね。「それ」が「問題である」という考え方があるから、許す許さないという課題が生じる。主語が「わたし」になるとき、全ての責任は自分になる。全てにおいて、自分がどう受け取るか。
まずは、問題ではない。という観察が必要になるよね。ただそうである。っていうだけのことだから。それ、手放し。
そこで泣いて悲しむも、怒りで震えるも、起こった現象については、何も変わらない。「問題」と「反応している自分」は全く別だ。
反応している自分を許すとか、許さないとか、そんなことではなく、許すことも許さないことも本来ないんだから(笑)時には感情的に対処できないほど辛いこともあるでしょう。我慢できない!みたいなこともあるでしょう。そんな時こそ、許すとか、許さないとかの案件が出てくる。我慢できないなら、ただ我慢できない。それだけよ。許すも許さないも、出してくること自体、必要なし。「あいつーーーー!!!!!わたしは我慢できなーーーーい!!!」ってこと。「あいつーーー。許せない!」はせめてやめてみよう。主語は常に「わたし」よ。

そして、感情は「今の反応」であり、明日の朝起きたら違うのだということを肝に言い聞かせよう。「肝」そう、肝臓は怒りを溜める臓器でもあるからね。
人は意外と真面目で、せっかちだ。この瞬間に解決しようとか、結果を出そうとする。出さなきゃいけない結果など、今はない。感情的になっている時こそ、結果は出さない。許す、許さないの案件を持ち出さない。これって、ミニ判決の連続。「間違ってる」「正しい」「おかしい」「普通」
結局、それを決めたいから、許す許さないの話になる。面倒なのは、許す方が優越感を感じるようになること。私が「許してやった」。私が「上」なのね。何様やねん?
許すものも、許さないものもない。
結局「わたし」がどんな人でありたいのか、という冷静な気持ちを取り戻すまでは、そのミニ判決は延期したほうがいいんだよ。

フォーカスは完全に冷静な自分を取り戻すこと。全てのフォーカスを「わたし」に戻すこと。
どうやって?
呼吸。それ、間違いない。
あなたの呼吸が整ったからって、確かに不機嫌な旦那が変わるわけはないさ。
でも、あなたの見方は確実に変わる。冷静な自分を取り戻したら、問題を解決に導いていくのではなく、あなたは、どんな自分でありたいのか、設定しなおす時だ。
そして、そんな自分になるためにワークを重ねる。
すると、自然に「問題は問題ではなくなっている」。あなたがあなたに集中しているうちにね。なりたい自分になることに集中しているうちにね。
手放しとは、「ミニ判決」をしないこと。「今」敢えてしないこと。
人は他人を変えることはできない。本人が決めない限り。
思春期の子供にあーだこーだ言っても無駄なように、本人が「イケてる」と思うものに、人は感化され、真似るもの。
だから、あなたが、あなたなりのイケてる人になり、その存在が自然に人を変えていくだけ。あくまでもイケてるイケてないは、その人の美意識だ。
その美意識こそが本当のスピリチュアリティであーーーーる。
許さなきゃいけないものなんて、なにひとつない。
ただ、そうである。
冷静さを取り戻すことが先。観察の目線が先。
そのために、日々の静寂。瞑想と呼吸に任せる。それこそが本当の手放しだろうね。
間違っている人はいない。あなた目線の「イケてねーな」ってだけでしょ。
あなたがイケてる人になってね。そうしたら、バイブレーションの合う人はあなたをイケてると思ってくれる。それだけよ。
許す、許さないをあなたのボキャブラリーから消しましょ。