なんて大それたタイトルをつけてみたけど、呼吸の話だよ。
わたしは20代の頃に酷い精神疾患を患っている。パニック障害から始まって、解離性障害まで。普通に暮らせるようになるまでには何年もの月日を必要とした。初めてパニック障害になり専門医に会った時、その精神科医はアメリカの精神科で医者をしていた渡辺謙似のイケた感じの人だった。彼はひたすら私に呼吸法を教え続けた。私は息を吐き切ることが怖かった。體の中の空気をなくしたら、また呼吸ができなくなるんじゃないかという恐怖。そして逆に吸おうとした。吸う方が精神的には簡単な気がした。でも実際には吸おうと思えば思うだけ、大して吸えているわけではなく、息苦しくなって、この呼吸法の練習が嫌で仕方なかった。私はそれで薬に頼った。
その頃は今のようにインターネットで何でも調べられるような感じでもなかったしね、日本に住んでなかったから、孤独の淵にいた頃だ。
たかが呼吸。そう思っていた。精神的に自分を追い詰め、自傷行為も激しかったので、息なんてしたいと思ってもおらず、何なら呼吸が止まるのを楽しみにしていたくらいだ。死ぬことを楽しみに生きるとは、なんと皮肉なことだろう。世の中には生きたい人がたくさんいる筈なのに。
そして同時に「呼吸くらいで人生がよくなるなら、いくらでも幸せに皆暮らしてるはず。嘘くさい」とも思っていたけど、ふかーーーい潜在意識のレベルで、人は簡単に癒せるし、簡単に死ぬこともできるのだと知っていて、それが呼吸に関係あるにちがいないという思いを否定仕切れていなかったはず。
今、世界中で鬱病が増えている。コロナのによる経済的な影響や人間関係の断絶や、家庭内暴力など。家に閉じこもり、仕事もなかったら、どうだろうか?

まさに私は精神的に病んでいたころ、そんな暮らしをしていた。何にもできない。私には何もできない。と思った。
そんなことないじゃないか!呼吸ができるじゃないか。
なんて鬱病の人に言っても響かないかもしれない。特に今は、外に出ても、余計なものを触らないようにし、時には人との距離が近いと息を止めるようにし、ある意味「意識的な呼吸」になっている節もあるかも?しれない。
たかが呼吸。
でも、まず吐き切ることに意識を向ければ、やはり體は手放しを学ぶということだ。そして體の中にあるネガティブな思考や感情は吐く息と共に出ていく。そして自然に入ってくる空気にも身を任せる。敢えて呼吸を深くしようなんて考えなくていい。時々、グラウンディングしましょうみたいなことを言うと、わざと音を鳴らして深い呼吸をしたりする人もいるけど、その必要はない。
これはもう、否定のしようもない事実だけど、人間はストレスがかかれば、交感神経が優位にアクティベートして血圧は上がり、心拍数も上がる。呼吸は速くなり、筋肉は緊張し、メンタル的にフォーカスは狭くなる。だから、ネガティブなことを突き詰め始める。
それが、呼吸に意識を向けるだけで、変わり始める。

呼吸をしたら、翌日に銀行口座に臨時収入が振り込まれるようなことはなくても、例えばお金がない人がお金がないことをストレスに思っているとすると、「今だけ呼吸に意識を向けよう」とするだけでストレスレベルは下がり、リラックスし始めるので、どうにかなるだろうと少し楽観的になれたり、メンタル的なフォーカスが広がるため、思いがけない方法を見つけたりすることはよくある。
要は自分の見方だけが変わる。
呼吸は誰にもコントロールされない。
自分の呼吸をコントロールできるのは自分しかいない。
人生も本来そうなのだ。自分しかこの人生はコントロールできないはず。
本来のスピリチュアリティとはここ。
「自分で」呼吸を整える。
お金払って、「私があなたの呼吸整えてあげますよー」ってないでしょ?
もちろん、正しい呼吸とか効果的な呼吸法とかあるから、それを教えてもらうのは有効。でも、わたしは呼吸検定3級とか、呼吸マスターレベルとか ないよね。
呼吸って深い割には誇るところじゃないっていうか、とても地味なのね。
地味なのに、全てなのね。そして人に見せるためでもなく、認定されるためでもなく、全ての人が呼吸に意識を向けられるようになったら、地球は変わる。
呼吸こそがこれからの明暗の分かれ目じゃないだろか。
まだ、目に見える形でデモンストレーション的な派手なチャネリングなどのスピリチュアルをやっている人もいるけど、
人が目覚め始めれば、最後に残るのは、
呼吸しかない。
地味だから、お金儲からないから、認めたくないだろう。
でも、呼吸なんだよ。スピリチュアルって。
欲を言えば、呼吸に加えて
背骨で神経を整え、
肩甲骨で血液循環を促して
丹田で體の中心をと問える。
腹を据えて生きる。
昔の日本人の生き方に今一度学べることがある。
さ、帯締めて、腹に意識を向けて生きようか。