まずは、「許し」ということも関係あるんだけどね。それはこの前、書かせてもらった。日本で暮らした時間より、海外生活が長い私が、和の心について語るのもどうかと思うけど、国籍は日本だしね、やっぱり日本人なのよ。和食がいちばんしっくりくる。毎日食べていたい。そこにオージー産ワインや麦酒が加わってもね。

今日は降伏(サレンダー)について考えてみた。サレンダーとは日本語では「降伏する」ということだけど、降伏という言葉は、どうしても戦争を思い浮かべない? 玉音放送を思い浮かべちゃう。玉音放送のこの有名な節 「堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す」 これ聞いて泣けてくる私って戦中の人か?。明治神宮の参道にある人々が触れ伏す写真を見ても泣けてきたなぁ。サレンダー。降伏とは涙を飲んで、痛みを堪えて、飲み込むこと。みたいなイメージはこの玉音放送から私は取り入れているのだろうかね。

私たちがスピリチュアル的にサレンダーというとき、何に対して降伏しているのだろう?
何かに対しての手放しのことを意味しているのだろは思うけど、何を手放しているのかな。それは諦めることとも違う。
私は外からの期待や、常識や「縛り」や「観念」を手放して、全てを神、源(source)、自己、創造主に意識を戻す時ということなのだと思う。
第二次世界大戦で敗戦した日本。戦争に勝ちも負けも本来はないけど、あの時日本の天皇制も手放したように見えて、逆に日本はある意味、本来の皇室神道をもう一度取り返したのではないかな、と思ってしまったりもする。本来、日本の皇族は、他の国の王族と違って、権力を振りかざすものではなかった。明治時代の国家神道から、皇室神道に戻った時、政治的権限をふりかざす本来の道からずれた神道が、元に戻ったような感じさえしてしまう。日本の皇室は世界の王族の中でもいちばん古い。それは、日本の皇室が政治的な争いから距離を置いていたということでもある。政治と離れた時、人々は日本の美を神々を通して見て、それを天皇家と重ねてみていたのだろうね。それって、宗教とも違う。神道は宗教ではないといつも思う。神道には「権限」がない。コントロールがない。だから、天皇制度は崩壊しなかった。
サレンダー。何に任せるのか「何」という対象は宗教でもなく、神でもなく、それは結局「自分」なのだろう。神道の鏡に象徴されるように、あの鏡は自分自身なのだというシンボル。私たちは自分に任せ、託す。

人が降伏するとき、それは他人の評価を手放し、自分に集中するということの誓いなのだと私は思う。
戦うのを止めるということ。なのだろうけど、その戦いって、「理解されたい」「誤解を解きたい」「認められたい」ということなんだと思う。その戦い止めるってことだ。人間のいちばんの悲しみは「理解されない」ということなんだと私は思う。そして、そこは急所だよね。弱い部分。嫌われることが悲しいの。理解されないことが悲しいの。結局、人って愛されたいのね、大事にされたいのね。それを手放して、自分が自分を理解し、自分が自分を認める誓いこそが、降伏なんじゃないかと思う。自分が自分を大事にし、あえて言うなら自分を愛するってこと。私は今でも自分を愛するという言葉が気持ち悪いのだけど、今ここで感じる自分を愛するとは、自分を高めていくこと。自分を邪険にするのではなく、自分を高めていくことは最大の愛なのだと気付いた。
自分が自分を認められるようになるためには、自分が自分にとって思い描く最善の人になっていくということ。人が自分を何と思うおうと、自分が自分のために素晴らしい人間になっていくんだという決意。すごい愛だよね。
和の国、日本も、本当は自国との調和の中に生きていけたら素晴らしい。日本という国の本質は素晴らしいのだ。それがふらふらーーとぶれてしまう戦後の日本。軸からずれて、日本の本質でない方向に触発され続ける。
昨日の記事に書いた「腹文化」でもそうだけど、日本人が「腹」「丹田」に繋がっていれば、この和の国という素質の素晴らしさを継承できるんじゃないだろうか。
そのための微生物、腸活、そして体幹、呼吸。
日本人よ。今一度、皆で帯を締めて暮らそうか? 自分たちの軸に戻ってこようか。
