行動する者。考える者。知識から行動する者。
これら3者のパターン。もちろん、それだけ。というのもないけどね。
仮に願うことがあって、行動する時、それは少なからず動物的欲望ということになるのかもしれない。
それが、「具現化の為の行動」だろうか。
人間が生命を維持するための生命欲求、安全を確保したい安全欲求、他者と関わりたい社会的欲求、他者から価値を認められたい承認欲求。この欲求の全てが動物的だ。
だからといって、この動物的欲求は汚らわしいものだから捨てなさいというものでもない。これらが基盤として満たされていなければ、人間は高次の欲求を持つことはできない。
全てにおいて、人間は、
理由
目的
決断
によってコンロールされているところがある。
それは動物もそうだ。
「死にたくないから」
「お腹を満たしたい」
「あのネズミを捕まえる」
これら理由、目的、決断。
分かる?
人間の生き方も例えば、どの欲求レベルにいるかによるけど、
生命欲求だと、
理由:「人生やめるわけにいかないから」
目的:「何とか支払う」
決断:「仕事に行く」
社会欲求だと
理由:「職場の居心地が悪いと困るから」
目的:「波風立たせない」
決断:「今日も本心でないことを言ってやり過ごす」
承認欲求だと
理由:「自分の良さや凄さを分かってほしい」
目的:「認められて結果を出して充実感を感じたいから」
決断:「頑張って今日も仕事」
そんな感じ。
わたしは、具現化とか引き寄せに意識が向いている人たちは、社会的に認められたいとかそういうことで頑張っている承認欲求なのかなともよく思う。
どちらにしても、この3つの欲求を満たすために頑張り続ける人たちはすごく多い。
それは生存で、動物的感覚でもある。
より高次の感覚となっていくためには、
「潜在的モチベーション」を持つ必要がある。
完全な内なるスパーク。
顕在的モチベーションのように、決断して行動するものではない。
そこには理由も、目的も、決断も実はないのではないかな。
真の自己実現欲求とは、
証明することはない。
説明は必要ない。
理解される必要はない。
認められる必要はない。
他の人が何をどう捉えていようとそれに影響される必要はない。
ただ佇まいというエネルギー体だけで自然と自己表現をする世界。
その世界で自分を純粋に高めるだけの為に知識を得て行動していくとき、本当の知性となり、それを人生に生かした時に叡知となる。
でも、先ほども言ったように、飛び級はない。
下の方の欲求が満たされないと高次欲求は満たされない。
そして、どの欲求に向き合っているのかによって、
ものごとの捉え方は無限に違う。
私が講座で話す言葉のひとつひとつも、
その人の人生経験と意識に基づいて違う。
他人の意識を変えることは私にはできないし、他人の意識を変えようとすれば、それはマインドコントロールとなる。
アレゴリー(寓話)と同じで、その人の成長によってとらえ方は違うから、
私はコントロールを手放す。
私は私の世界をただ表現する者でありたいだけ。
そのうち表現したいという欲求がなくなるまで、この感覚を満たしてあげたい。
そして学びたいという欲求がなくなるまで、その感覚を満たしてあげたい。
精神世界は教えるものではないから、
ただ自分の存在を人として魂として丸くしていくだけなんだな。
