人類共通の疑問。「自分は誰なのだろうか。」ということ。人が亡くなると、明らかにさっきまであった何かがなくなることを知っている。そして多くの文化で魂ということを信じた。宗教が生まれた。
人間の知恵とは、この魂の探求にあるのかもしれない。分析はそこから始まるのかもしれない。
だけれども、それだけではない。
通常社会人として生きていると、暮らしの中で、
「なぜ、この人はこんなことをするのだろう?」
「いったい、この人は何を考えているのだろう?」
「これは、こういうことだろうか。」という終わらぬ分析をし続ける。
それは概念的思考と呼ばれる定義の連続、ジャッジの連続の再生となる。
自分の中で作り上げる「コンセプト」。
コンセプトの中に「知識」はあっても、
叡知はない。叡知は、知識ではないからだ。
知識は誰かのものだ。誰かが言ったことだ。
叡知はゼロポイント。知識すら一度取り入れて、溶けて自分のものではなくなったような状態。
空間の中に溶けて、その空間では、自分の知識と先人たちの知識と、全てのものが惜しげなくある。
私の朝のYoutube配信はそこを目指している。だから、準備はしない。調べない。
ゼロの状態から出てくる言葉を繋げる。
自分の知識で話すことをどんどん手放していきたいのだ。
例えそれが知識から派生したものだとしても、知識である必要はない。
人は分析をしたり、知識から話すから、自分と違うコンセプトを持っている人を責めたくなる。許せなくなる。それが全ての戦争の原因だ。

自分の肩書。
名前。
立場。
環境。
家族。
性別。
経験。
計画。
アイデンティティ。
時間。
サイエンス。
それら全てを一瞬でも手放してみる。エゴやプライドで口を開かないように。
ただ空間に溶け込んでみる。
ものに名前もなく、概念もない。
そんな風に周りの出来事を眺めるとき、気付かなかったことに気付くだろう。
自分が悩んでいること、考えていることに何の意味もないことを思い出すだろう。
人が何かを妄信している時、何かを強く信じている時、正しさを見出している時、それを「無知」と呼ぶ。
ただ受け入れている状態を無知と呼ぶ。
反発している状態を無知と呼ぶ。
受け入れることもせず、反発することもない状態。
ただ「在る」だけの状態。それが叡知。
だけれども、そこには知識と人生経験の両方あってこそなのだ。
無知でもなく、
知識だけでもない。
思考が重い状態。それはジャッジの連続だということを知ろう。
知らなくてもいい状態を
自分が誰なのか知らなくてもいい状態を
何故その人がそれをしているのか知らなくてもいい状態を
何故自分がこんな目にあっているのかを知らなくてもいい状態を
ただそこに居られるように。
そういう自分で居ることができるように。
やっぱりスピリチュアルに生きることって、一日で成せるものじゃないんだね。