恐れって、避けられないと思うから出てくるものなのかもしれない。
っていうことは、避けようと思ってるってことだよね。
ただ恐れを受け入れたら??

なぜそんなことを思うかって、アガスティアの葉って聞いたことある?
5000年前に聖者「アガスティア」が、神からの予言(預言)の言葉をヤシの葉に記したものと言われていて、この予言は適当なものではなく、人間一人一人のその人の未来のことが古代タミル語で書かれているもの。それを読むことができるのは「ナディ・リーダー」と呼ばれる人だけとも言われる。
これはナーディ占星術から来ていると言われているのだけど、私は今、インド人の先生について、それらを学んでいる。アガスティアの葉は読めないし、読めるようにならないのは知っている。今世ではない。今、ナーディなどインド占星術から派生したものを深く学んでいる最中。でも、その過程で「恐怖」が生まれてくることに気付いたのだ。分かれば分かるだけ怖いのだ。
インド占星術は、そもそも自分の今世での課題を明確にしていく、かなりスピリチュアルなもの。占いではない。カルマとして大きな課題を目の前に見せつけられる前に、その課題に向き合って自分を高めていくということ。インド占星術をやればやるだけ、このカルマが明確に見えてくる。
それが怖いのだ。具体的にシンボルとして「こんな出来事が起こる」みたいなことも予測することはできるけど、それは、そのカルマに気付かずに進んだ場合の可能性であって、必ずしもそれが起こるということではないし、その思考パターンを続けていけば、ってことを分かりやすく述べるものでもある。
例え、人の才能が見えたとしても、その才能を生かしつつ精進していくことを示すのがインド哲学。そして、その才能に甘んじるなよっていうのもインド哲学。
この「恐れ」。避けられないとどこかで思ってしまっている恐怖。人間は常に何かを避けようとしていて、
何かを認めようとしない。
自分の中の安心材料だけを見つけて、その部分に収まろうとする。
これでいいのだ。という再確認を人は求める。
常に自分を正当化しようとする。
自分が正しいのだという承認を求める。
間違っていることが怖い。受け入れられないことが怖い。
正しさと共に自分の収まる場を探す。
実はそれこそが逃避なんじゃないかと思う。
その恐れに向き合いたくない。変える自信がないから。
ここまで頑張ってきたのに、全てを変えることは
「今までの努力が無駄になる」という幻想。
それこそが執着なのかもしれない。
本当はどんなことも変えることができる。例えそれが今世ではなかったとしても。
アガスティアの葉を読んでもらったことがある人たちは、皆驚くほど当たっていると言う。でも、本来のアガスティアの葉も、当たっているのか、外れているのかが大事なのではなく、
自分を高めていく課題リストをもらっているというだけのこと。
そしてその課題を避けようとするから、怖いのだ。
全てが永遠ではない。同じ状態では続かない。
それにコンスタントに気付いて手放していけるか。
変容を受け入れていけるか。
自分が頑固に「こうだ」と思っているところにこそ、執着があり、
その「硬さ」はいつしか破壊される。
そう。全ては破壊される。同じ状態ではない。怖い?
怖いよね。その恐れも受け入れつつ、ただ善に向かって高めていくしかないのだ。
美しく破壊されるために、美しく創造し、その中で光を知る。
死ぬために生きる。生きる為に死ぬ。
だからこそ、常に滑らかにしなやかに柔軟でありたいと思う。
スピリチュアルとは、何も信じないこと。何も決めないこと。全ては永遠ではなく、全てに意味がない。意味がないことも受け入れる。
それが今の結論でも、次の瞬間に既に変わっているかもしれないこともまた受け入れつつ。
エンドレスな旅。