壮大なテーマなので、ブログにさくっと書けるようなものではないのは、分かっているのだけど、現時点の「自由」に関する考察を備忘記として残しておいて、そこからまた自分の捉え方がどう発展するのか見ていきたいと思った。
どんなことも、結論はなくて、ずっと過程でしかないからね。
自由ということを語る時に心身一元論というコンセプトが出てくる。
肉体も精神もひとつだという意味ね。
信じたら、そうなる!というコンセプトや、自分の思考が現実を作るという考え方。
シュタイナー哲学と今一度向き合ってみると、
心身一元論者って、もしかして「自由」ではない!!むしろ「不自由だ」という思考に辿り着くし、それって無知?という感じになってくる。(私は心身一元論の傾向が強いけどね。)
自分の信じることが現実を作るのだとすると、それは最大の「自由」だと思ったけど、いや、待て。
一元論者は、科学的な根拠、この宇宙は原子が集まりできている。というところで止まったり、スピリチュアルを妄信して、自分は守られているというところで止まったりする。
英語的に「ナイーブ」という言葉は無知という意味になるのだけど、人間は無知である時は自分の外側のエンティティ(実体)に結論を求めようとする。
外側のエンティティとは、集団、社会、リーダー的存在、宗教、政治、最近ではメディアが特にそうだね。
そして、そこに付け加えるとすると、私は書籍ですら外側のエンティティだと思うし、科学ですら外側のエンティティだと思う。
一元論って結局、スピリチュアルを妄信することも、科学を妄信することも、同じで、
肉体と精神がひとつで、それ以外の可能性を自分の中に取り入れないとすると、
魂としての無限大の学びを制限していることになるのではないか。
と思った。不自由だ。それは、不自由だ。
シュタイナーがこんな例えをしている。
牡牛に角が生えているのは、闘う為なのか。
角が生えているから、闘うのか。
どちらもあるはずだ。
そして、それはただの進化論では片づけられない。
「自然」という言葉でさえ、現代人のコンセプトは狭い。
何か見えざるものに人は影響を受ける。
自然とは証明できる科学の世界だけではない。
ここでは多くは語らないけれど、私も子供たちも、素晴らしい叡知を持った教育者たちにお世話になってきた。何事にも極端にならないことが精神性の高さだと思い知らさせる。いい意味でため息が出る。知識が自分たちの人生に経験として生かされた還暦を過ぎた人たちの美しい叡知。歳をとることがこんなにも美しいのかと思わせてくれる人たちがいる。
彼らから学んだのは、何事も決めつけることによって、自由が奪われるということ。
簡単に言えば、ただそういうこと。
スピリチュアルも、科学も妄信しない。
全ての周りに余白を持たせるバランス力。
どこにも極端に傾かないということなのかな。
私はもともと、結構、極端な部分があるので、ひとつのことに夢中になるとそればかりをやってしまう。
何にも極端にならない、夢中になり過ぎないことって、最大の自由なのかもしれない。
それが今日の私の「自由」の定義。
今後の講座は、ますます自由にやっていこうと思う。
