自分を抱きしめる。
自分に「好き」っていう。
「あなたは自分が好きですか?」
そういうのが超絶苦手だって話をしたことがあるけど、
わたしは、それでいいと思っている。
いや、それがいいと思っている。
自分のこと好きってなんか気持ちが悪い。
すごい違和感だ。
人間の本質ってそういう「好き」に当てはまる対象ではない。
その「好き」ってこれまた、心理の話でしょ。
思考と感情に対処するトリックのこと。
精神世界では
思考や感情はたまたま自分にくっ付いているもの。
思考と感情を自分と切り離した先の話で、
対処法でもトリックでもメソッドでもない。
生き方の話だ。
巷の自己愛、自分を好きっていう感覚は
本来自分のものではない思考と感情を好きって言っているようなものだし、
その思考と感情で出来上がった自分を「自分」だと思ってる大きな勘違いから
出来上がっているからね。
なんで、それ愛さなくちゃいけないのかすら
意味が全く分からない。
手に持ったスマホを
「わたしはスマホです」と言わないよね。
「私はスマホを持っています。」というだけ。
感情とか思考ってまさにその
「スマホ」だよ。

便利に使えるなら使えばいいし、
不必要なら、使わなければいい。
嫌だ、嫌だと言いながら、スマホに保存したビデオを見なくてもいい。
好きでもないビデオに
=ネガティブな自分。ダメな自分。(って普通言うやつ)
「あなたを許します。」
「あなたを愛します。」
っていう意味はない。
的外れでしょ。
巷の所謂、自己愛は
私はスマホです。
私はスマホを愛します。
私はその動画を愛します。
って言ってるようなものだ。
自己愛って言葉はすごく勘違いだらけだけど、
敢えて自己愛って言葉を使えば、
真の自己愛は、別の人間に対する愛みたいなものとは
全く次元の違うもの。
自分を高めたいと思う生命の力に気付く。
その生命の力こそが宇宙そのもので、
自分の中にあるその生命の力を尊いものだと気付き続けられるか。
拡張し続けるその生命の力が自分の中にあることに気付いて
そこに任せていけるか。
なのだと思う。
自分の内の生命の力を愛とするなら、
それは自分と分離したものではない。
ただの「ジェスチュア」なのだ。
ただ、花のように自然にそこに在るだけ。

花は自分を「愛してる」なんて思わない。
花は宇宙とひとつだから、
分離がないから、
愛しているとは思わない。
ただ、宇宙と一体になった愛(生命)という存在であるだけ。