メルヘンには「宇宙の古い霊的な神秘の表現」が含まれ、そこには普遍的な宇宙の法則としてのアーキタイプがインプリントされていると考えます。
今日はメルヘンについて少し書いてみます。
メルヘンはマクロコスモス、ミクロコスモスが生きている宇宙的化学反応の凝縮のようなものです。
メルヘンに耳を傾けることによって人間は魂(アストラル体)に必要な栄養素のようなものを摂り入れることができ、そこにミクロコスモスとマクロコスモスを結ぶ化学反応のようなものが起きていると考えることができます。錬金術が起こっているとも言えます。
メルヘンには人間の奥に誰も本来触れることができる「存在の根源的表現」があります。敢えて、「神」や「宇宙」や「愛」などという大袈裟な言葉を使わずに「存在の根源」に魂が触れる経験がメルヘンなのです。
で、魂って何でしょう?
魂は、人間の体と霊体の間にあります。魂は外の世界から印象を受け取り、好き嫌い、願望、欲望などを映し出しだすものです。
それが思考に降りていきます。その思考がまた呼吸をするように魂に戻ってきます。そして霊体に届き、それぞれの人生の目的を維持させます。このプロセスが働いていれば、「人生を意図的に生きる」「意図的な創造」「使命を果たす」というようなことができるのです。
魂の部分を「アストラル体」とも言いますが、それは感覚体でもあり、前述したように外の世界からの印象を受け取ることに関係します。外の印象を内的に働かせる力の形象とも言えます。「エーテル体」は生命体で、そこに素材のような物質的なものは存在しておらず、生命の氣や力の形象のことです。
そして霊体の中に「自我」が生きています。自我というのは「私は私である」という純粋な意識で、自我は意識魂から光を放ち降り、アストラル体、エーテル体、肉体に作用します。
人間は転生を繰り返し、より神的なものに近づこうとする意志と、発達、進化に向かう方向性を持っています。
発達も進化も『自我がアストラル体をつくりかえていく』ことです。
自我がアストラル体をつくりかえていくと、その自我はやがて「霊我」(マナス)に進化していきます。自我によって作りかえられたエーテル体は、「生命霊」(ブッディ)となり、自我によって作りかえられた肉体は、「霊人」(アートマン)となっていきます。
その方向性に人間は向かうようにできているのです。銀河が渦を巻き、惑星が自転、公転するようにその流れを止めることはできないのです。
私が発達に関わることをシュタイナー教育でしているのは、この方向性を思い出させるキッカケを与えることだと思っています。発達障害があると、この方向性を思い出せないままになってしまうこともあると感じます。宇宙の印象(銀河の渦、惑星の動き)がなかなかこの人間としての転生にインプリントされていかないことが、シュタイナー教育における発達障害と考えます。それは、日常的には、外の印象に引っ張られ、好き嫌い、願望、欲望に一喜一憂してしまうことや、学習が進まないこと、肉体が上手く機能しづらい傾向にもなります。発達障害は人間としての未熟さではなく、発達していく流れが上手く掴めないことやその人の持っている人生の目的を肉体まで降ろしてくることの難しさがあるということなのです。
発達障害に限らず、今の地球に生きる人間は、自我がアストラル体やエーテル体を掴むことができないままで、欲望、流行、「こういうものだから」という通念のようなものに流されたまま生きる傾向があります。意図的に生きながら、協力しあってこの世界をよりよい所にしてくというのが人間としての生きる意味です。そういった闇と光の間の融合、バランスなどを得るためのプロセスがメルヘンにも込められているということになります。
シュタイナーは、物質世界の現実で、目に見える世界にかけられたフィルターを取り、超感覚的世界にある本質を明らかにすることがメルヘンの解釈であると言っています。寓話、象徴、メルヘン、これらは現実的な描写の後ろにある超感覚的な世界の本質=アーキタイプを導き出せるかどうかにかかってきます。
メルヘンの中に生きている「宇宙の古い霊的な神秘の表現」をイメージすることができるのは、人間が宇宙空間で時と空間を越えて「転生」を繰り返しているからです。
ゲーテの書いた「緑の蛇と白百合の姫」というメルヘンがよく知られているので、このメルヘンを例に挙げてみます。
この物語のあらすじは
年老いた一人の渡し守のところに、2つの鬼火がやってきます。
鬼火は、川の向こう岸に渡してもらいたいと頼みます。
豪雨によって川の水かさが増していて、渡るのが難しそうでしたが、渡し守は頼みを承諾することにします。
向こう岸につくと、その鬼火は金貨を振るい落としました。
ところが、渡し守は代金として金貨を受け取ることはできません。なぜかというと、この川は金属が嫌いで、もし金属が触れると川が大氾濫を起こすと知られているからです。そこで渡し守は自分の帽子に金貨を入れ、川の水に触れないように山まで行き、岩の裂け目に金貨を捨てました。
その岩の裂け目には「緑の蛇」がいました。そして金貨を飲み込むと、蛇の体は透き通って光輝きました。
蛇の体から発せられた光によって周りの景色が照らされ美しくなりました。蛇は嬉しくなって山を下り、水のある方に行くと、そこで鬼火たちに会います。
鬼火たちは金貨によって美しくなった蛇の話を聞くと、蛇にもっと金貨を与えます。その代わり、鬼火たちは「美しい白百合の宮殿」の場所を教えてくれと蛇に頼みます。
ところがその白百合の姫は、彼女の手に触れる全てのものを死に至らせるという悲しい運命を持っていました。そんな白百合の姫に隣の国の王子様は心を奪われます。この二つの国が結ばれたら、姫の国にも隣の国にも生命の力が宿ります。ところがその二つの国の間には川が流れていて、橋がありません。
この川に橋を架けるには条件があります。
真昼間に蛇の背を伝うか、夕方に巨人の影を使うか、どちらかです。
どうするべきが悩んでいると、生命を与えるランプをもつ老人に出会います。
老人曰く、全てのものが力を合わせて初めて奇跡が起きるといいます。
緑の蛇はそれを聞いて自分の身を差し出し、橋になります。
その橋を渡った王子様は白百合の姫のところに行きますが、その手に触れて死んでしまいます。しかし、力を合わせた結果奇跡が起こり、老人はランプを使い王子様を復活させます。
老人が「今こそ、その時だ」というと、地中から三人の金属の王が現れます。この金属の王が新しい生命を与え、呪いを打ち砕き、この若い夫婦と二つの国は幸せになりました。
シュタイナーはこのメルヘンについて、人間の魂の進化、発達の様子であると言っています。緑の蛇の世界は現実的な物質世界。白百合の姫の世界は超感覚的世界です。そしてそのふたつを隔てるのが川です。
渡し守は無意識的な魂の力で、超感覚的世界から現実の物質世界に運ぶことはできても、現実世界から超感覚的世界に人を運ぶことは出来ないいうことを意味します。
それは私たち人間が物質的欲望に溺れてしまうと、超感覚的世界のことを信じなくなり、見えなくなるということを表しています。
そして緑の蛇はこの二つの世界の架け橋になります。人間が意図を持って生きるということは、その場限りの欲望を犠牲にして意志を貫き通さなくてはいけないという犠牲が生じます。そこに現実的物質世界と超感覚的世界を結びつけるヒントがあるとも言えます。
けれども、緑の蛇は自分がこの川を繋ぐ決断をしないという選択肢もありました。この物語の中では私欲のためではなく、この二つの国を結ぶためでしかなかったわけなのですから。そこに人間の自由意思があります。
水かさが増したこの川を渡るには自分に対する信頼、守られている自信と安心感のようなものが必要です。それこそが「発達」なのです。
発達の土台である安心感や信頼などができていなければ、超感覚的世界に向かうことはできません。
地から出てきた3つの金属は「肉体」「エーテル体」「アストラル体」でこれらを自我(金)が統合することによって自由になるのです。
人間が超感覚的世界に辿りつくことで、現実的物質世界が超感覚的世界がひとつになるということ。
スピな世界、ニューエイジな世界、アセンションな世界、次元上昇の世界に憧れるだけで得られるものではないということなのです。発達の土台ができていないまま、不安から白百合の姫の世界、つまり超感覚的世界に辿りつこうとするのであれば、溺れ、見失います。次元が上昇するのではなく、自分が発達していくから見える世界が変わって来るのです。それは、他の誰かが何かを施してくれるから次元上昇するわけでも、アセンションするわけでもないということを現代の超感覚的世界に憧れる人たちが知る必要があるということです。そこに目を覚まさない限り、ルシファーの呪いにかけられたまま目が見えていない月期の人間のようなものです。
「水瓶座の時代」「風の時代」「〇〇の時代」という概念に執着すれば、迷います。風はアストラル体です。時代の風だけが自分たちをあるべき方向に連れていくわけではありません。そこにある水(エーテル体)、向かう方向を示す星(自我/人生の目的)、乗っていく船(肉体)があってこそ。
自我を降ろしてくるためには、止まること、動くことの呼吸を大事に
毎日の作業を、日常を、目的と意図を持って繋ぐことです。
これを書いている今日はクリスマスです。
クリスマスは、二つの世界を結ぶことを思い出す日。
そして自我という光と共に意図的に生きることを思い出す日。
これらが「クロス」するポイントは「ハート」にあります。
素敵なクリスマスをお過ごしください。