メルヘンとは言っても、今日は日本の昔話。
メルヘンを語る時、先に結論を言ってしまえば、子どもの中の生命のエネルギーを高める錬金術が働いているのです。
錬金術と言えば、鉛を金に変える 「卑金属と貴金属に変えようとする試み」として多くの人に知られています。中世のヨーロッパでは錬金術、占星術、そして医学はひとつのものとして広まりを見せていました。
やがてそれは、物質的な変容を試みることに限らず、人の精神性を高める哲学的な要素を持つことになりますが、それは錬金術の宇宙観がマクロコスモスとミクロコスモスの対応関係をそのまま表すものであるからです。
実際に錬金術におけるプロセスは人間の生命プロセスとして常に起こり続けています。
アントロポゾフィーはそのような考え方に影響を受けている為、医学、農業、教育においても惑星の働きかけによる生命プロセス、そして4つの構成体に基づいた考察をしています。
シュタイナー教育においては、子どもたちに「生の声を通して物語を語る」ということを非常に重要視しています。
生きた声は、語るものの生命を通したイメージとなっていきます。
子どもたちが物語を聴きながら繰り広げるイマジネーションは、自らの生命プロセスへ働きかけをしています。
そこでメルヘンにおける錬金術ということにやっと触れることができるわけなのですが、日本の昔話の中では「鶴の恩返し」は生命プロセスの調和をもたらす重要な物語であるということが言えます。
そこで、「鶴の恩返し」の粗筋をまず見てみましょう。
「むかし、むかし、ある山奥におじいさんとおばあさんが住んでおりました。
おじいさんは雪深い山に柴刈りに出かけました。
ところが柴刈りの帰りに、漁師が仕掛けた罠にひっかかった鶴を見つけ、おじいさんはそっとその罠を外してやりました。
その夜、旅の途中で道に迷ったと言う美しい娘がおじいさんの家にやってきました。
おじいさんとおばあさんは困っている娘に温かいお粥を食べさせました。
どこにも行く宛てがないというその娘をしばらく家に置いておくことにしました。
翌朝、娘は糸を持って機織り部屋に入り、しばらくするととても美しい布を織って出てきました。おじいさんは町に行ってその布を高い値段で売り、お米やお味噌を買うことができました。その晩も、その次の晩も、おじいさんは、むすめが織った布を持って町に売りにいきました。
むすめは機織りをする間は扉を決して開けてはいけないとおじいさんとおばあさんにお願いをしました。ところが日増しにやつれていくむすめを見て、心配になり、ついにおじいさんは、機織り部屋の扉の隙間からむすめの姿を見てしまいます。
するとそこには一羽の鶴が自分の体の羽根を抜いて布に織り込んでいる姿がありました。むすめは二人に気付くと、命を助けて頂いた恩返しに来ましたが、もうお別れですと言って、空へ飛び立っていきました。」
改めて「鶴の恩返し」を読んでみると、
鮮明に浮かんでくる絵は、雪景色、鶴の姿(白、黒、赤)、怪我をした鶴の血と雪、光り輝く糸、扉、飛び立っていく鶴。
これは正に錬金術を通して生命プロセスに働きかける物語であることが分かります。
日本という国が錬金術の文化をアダプトしていなかったにしても、人類共通のアーキタイプの中に働く力は昔話を通して見ることができます。
雪のイメージは錬金術では銅のプロセスを表します。銅は肉体に入る力、そして温かさを表します。
鶴の姿を思い浮かべてみると、日本のタンチョウヅルは白、黒、赤です。そのイメージは鉄のメタモルフェーゼでもあり、同時に生命プロセスそのものを表現しています。
鶴の血が雪の上に滲んでいるのをイメージすることができるとすると、それは、生命力そのものであり、光り輝く糸は、外と内との関わり、そして感覚器官としての心臓の発達を助けていきます。
扉は、知性の世界への移行の表現です。
飛び立っていく鶴のイメージは魂との結びつきで銀のプロセスを表します。
絵本から受けるイメージではなく、ただ身近な大人の声を通して聴く物語を通したイメージは大きな力となります。
正に子どもたちが生きていくために必要な生命の力になると言っても過言ではないのです。
子どもは何度も何度も同じ話を聞きたがるでしょう。
その時、何度でも同じ話をしてあげるといいのです。
それは子ども自身が自分の生命プロセスを強めているということ。
大人はただ耽々とその物語の映像をイメージしながら、子どもたちに語り掛けることが大事になります。
「鶴の恩返し」に限らず、世界中のメルヘンの中には錬金術が生きています。
それはただ生存しているだけではなく、やがて親から精神的に巣立って、自分自身の人生を創造していくというプロセスに繋がっていくのです。
メルヘンは子どもを親のカルマから解放する自由を与えてくれる素晴らしいものなのです。
